【連載】れいコラム No.21 「#採算」という考え方

先日の連休中に仕事が入り、子どもを見てあげられないので実家に連れて行きました。
実家は神奈川県の茅ケ崎市にある 「湘南ライフタウン」 という大きな住宅街の中にあります。どの鉄道の駅からもたっぷり離れていますが、神奈中バスが入っており、朝夜の通勤時間帯以外でも1時間に数本の便があり、行先も4駅、色々なコースがあります。

実家で父親と雑談している際、「ここ(実家)は駅からは遠いけれど、バスが充実しているからいいね」 という話になりました。
「私が住んでいる見沼区は、特に南側の方は、駅から遠くバスも少ない地域が結構あるよ」
「コミュニティバスをもっと走らせてほしいけど、「収支率40%」の要件があるんだよ」
すると父が、
「今後、人口も税収も減っていくので、不採算路線の廃止や縮小は必然だろう」
との趣旨の事を言い、うーん、と考えさせられました。

「採算」という言葉を出されると、しょんぼり諦めそうになる自分がいます。
長年企業で働き、求められてきた考え方だからだと思います。

でも、そもそも自治体の目的は利潤を生み出す事ではないはずです。
私達も自治体に雇用されているわけではなく。逆に自治体に税金を託しているのが私達で。
自治体が追求するものは、利潤ではなく住民の人権のはずだと思うのです。

使えるお金に上限があるのは当然ですが、可能な限り住民に広く還元するのが筋だと思います。
今、さいたま市内のあちこちで進んでいる、一体どこの誰のため?と不思議に思うような大規模開発。
それにたっぷりつぎ込んでいるお金には手を付けずに、福祉関係の課題にだけそのセリフを言うのは、利権優先の言い訳でしかないと思うのです。

例えばバス網を充実させる事により得られるものは、収支率よりもっと大きいもののはずです。
「どこに住んでも、幾つになっても、車がなくても、安心して暮らせる」それは人権であり、地域振興であり、格差是正でもあり、子育て支援にも繋がり、景気対策にも繋がっていくのではないのでしょうか。

【連載】れいコラム No.20 #この3年半で

この3年半で「生まれ変わった」といってもいいほど、世の中の見え方が変わりました。
知るべきなのに知らなかった事が山ほどある事を知りました。政治。日本の社会。人権。民主主義…。

当初、私はあまりに楽観的でした。「このコロナ禍で、私がそうだったように皆が政治の異常に気づき、投票に行き、政権交代が起き、日本がよくなるだろう!」と。
でも現実は違いました。署名を集めても、宣伝しても、投票に行っても、状況はビクともせず、むしろ加速して悪化していく…。

私には「基礎」がない、と痛感します。歴史を知らず、「人権」も「民主主義」も知らず、学校で覚えたのは「集団のルールに従い効率よくこなす」事でした。おそらく私だけの問題ではないと思います。
それでも、諦めるには不条理すぎるし、子どもの未来を思えば何かせずにはいられない…。そんな思いで、自分が今すべき事を探しています。

【連載】れいコラム No.19 #人権

ジャニー喜多川氏による性的虐待の「うわさ」を、私も以前聞いた事がありましたが、半信半疑のまま聞き流してしまっていました。
今こうして大問題になってようやく、自分の「人権感覚」の鈍さに気づき、愕然としています。

ジャニーズとして成功するためには、ジャニーさんの「性癖」につきあわなければならない…。それが「公然の秘密」であり「暗黙のルール」だったのではないでしょうか。
人権よりも、物事の善悪よりも、権力者の意向を重んじる社会。お互いに牽制しあい、「秩序」を乱す者は黙殺したり、疎外したり、叩いたりする社会…。ジャニーズ事務所の問題を通じて、日本社会の問題に気づかされた思いです。

日本で生まれ育ち、「同調圧力」を無意識に強烈に受けてきた一方で、「人権」という言葉の意味は、日本共産党に入党するまで考えた事もありませんでした。
気づいた今、そんな自分も社会も、変えていきたいと思っています。

【連載】れいコラム No.18 #海洋放出

福島第一原発の「汚染水」。政府は「処理水」という呼び名にこだわりつつ、8月24日、とうとう海に流し始めました。放出は本当にやむを得ない事なのでしょうか。水の安全性は本当の所、どうなのでしょうか。

国際環境NGO「グリーンピース」や「Friends of the Eearth Japan」のサイトにわかりやすく書かれていました。まとめると
①「トリチウム以外は基準値以下」というデータは、水を溜めている大量のタンク群のうちごく一部のタンク(全体の3%)での測定値
②全体の70%のタンクで基準値超えの放射性物質を検出
③東電は「基準値超えの水は再処理して放出する」というが、何を・どれだけ・いつまで放出するのか試算すら提示していない
④大型タンク貯蔵やモルタル固化など「実現可能な代替案」が提案されているのに政府は向き合おうとしない

この「なしくずし式」の海洋放出は、あまりにもずさんで無責任な所業ではないでしょうか。
事実を一人でも多くの人に知ってほしいです。

【連載】れいコラム No.17 #夏休み

7/22~8/28 まで、小5と小2の子どもが夏休みでした。これまで長期休みは保育園や学童保育にお世話になってきましたが、今年は諸事情により家で過ごさせる事が多くなりました。
子ども達を「家庭だけで見る」日々は、産育休の時以来でしたが、とてもプレッシャーでした。そもそも平日は仕事で、子ども達を置いて家を出るしかなく、「見る」事すらできませんでした。

去年までは、毎朝保育園や学童保育に送りさえすれば、保育士さんや指導員さんがバトンを引き継ぎ、集団の中で思い切り体を動かして1日過ごさせてくれるので、安心して仕事に行けました。それがどんなにありがたい事だったか、今回身に沁みました。

保育園や学童保育は、ただバトンを受け取るだけでなく、子どもが 「安心・安全に、居心地よく過ごせる」 状態で預かってくれるからこそ、預けられます。
「安心・安全に、居心地よく」 …。とても難しい事だと思います。子どもの集団は大人の集団とは違います。保育者は、例えば学童から公園などへの移動の際、車道に飛び出すなど危険な行動がないよう、目を光らせます。外遊びの間も、危ない事をさせないよう遊びながら全体を見ています。外遊びをしたい子、室内で遊びたい子、元気な子、寝不足な子、風邪気味の子、、、色々な性格や体調の子がいる中、それぞれが居心地よく過ごせるよう配慮します。子ども同士ゆえ小さなトラブルは日常茶飯事なので、子ども同士で解決できない場合は保育者が間に入ります。

「安心・安全に、居心地よく」 過ごすためには、保育者が子ども1人1人にきめ細かく配慮して対応することが欠かせません。でも今、保育園や学童保育に対する日本の予算はあまりにも少なく、必要な人数を確保したり、長く働き続けて経験値を積んでいく事がとても難しい状況だと思います。
通園バスでの置き去り事故や、保育中の暴言や暴行など、いたたまれないニュースも頻繁にあります。必要な予算をつけない悪い政治のしわ寄せが、保育の現場に、子ども達に、もろに行ってしまっているのを苦しい思いで感じています。